熟年世代がクルマに求めるこだわり

ペットとのドライブを楽しむ。
写真提供:本田技研工業 |
今度はいよいよ私と同世代の話です。冒頭でお話ししたように、実はこの世代こそ、私の周りにはクルマ好きの数が限られているのです。とはいえ、友人の話をしましょう。
彼は、スウェーデンのステーションワゴンに乗っています。これまでに3台ほど、同じ銘柄で乗り換えてきたと言います。夫婦そろって大変気に入っているようすです。いまでは、子どもたちも大きくなり、旅に出るのも夫婦二人でということですが、かつては、子ども連れで出かけるのに、ステーションワゴンが便利であったのは言うまでもありません。また子どもが大きくなった後には犬を飼い、犬を連れてドライブへ年に数度出かけるのが彼らの楽しみのひとつで、現在もなにかとステーションワゴンは便利なようです。
その友人と私は、毎週末、乗馬をしに千葉県まで出かけます。往復は、彼のクルマです。彼は乗馬歴20年以上で、私も間もなく10年になろうかというところです。二人が一緒に取り組んでいるのが、障害飛越です。高さ数十センチから1メートルほどのバーを、馬とともに飛び越える競技です。
障害のバーが高くなるほど、それなりに馬の駈歩(かけあし:馬術用語ではこう書き、読みます)の、速さとリズムが重要になってきます。人間が、ハードルや走り高跳びをするときにも、ある程度勢いのある助走が必要なのと同じです。競馬の速さよりは遅いですが、障害を跳ばせようとして馬を駈歩させたときのスピード感はけっこうあります。
そのように、乗馬では、馬を操る術だけでなく、スピード感も必要な面があり、友人はそのスピードが気持ち良いと話します。ところが、乗馬でスピードに親しんでいる彼も、クルマの運転となると、「楽しいと思ったことは一度もない」と、答えるのです。かといって、運転することを嫌がる風でもありません。運転が楽しいと意識したことがないというだけです。
その彼と奥さんの夫婦は、二人ともクルマ選びにはこだわりを持っています。だれもがその名を知っているようなドイツ車は、仰々しくて好きではないと言います。一方で、ドイツ車でも、大衆車として知名度が高いクルマは、安っぽいイメージがあって欲しいとは思わないと言います。今日、もはやそんなことはないと説明しても、彼らの印象はそう簡単に改まるようすはありません。
その点、彼が乗り継ぐスウェーデンのステーションワゴンは、輸入車の中でもブランドが確立していて、かといって押しつけがましい存在でもなく、奥ゆかしさがちょうどいいと言うのです。品質にも優れ、また安全性が高いことで知られることも彼らを満足させています。
最近、彼らが懸念するのは、より小型で安価な同社のクルマが登場していることです。あまりいい印象はないようです。プレミアムな存在感を崩してほしくないという思いなのでしょう。
実際、あるとき彼の奥さんが小型の車種に乗った際、騒音や振動が大きく、不快だったと言っていました。それほど品質に差があるとは思えませんが、車体が小型である以上、ある程度の振動は生じる可能性がありますし、騒音も耳に届きやすかったのかもしれません。また、座席の位置の調整が手動であったことも、高級車にはふさわしくないという思いにさせたようです。
とはいえ、彼らが現在のステーションワゴンに大変満足し、年に何度か愛犬を連れて夫婦でドライブに行き、あるいは近所の買い物などにも愛用しているようすを見るたびに、これほどオーナーに気に入られたクルマは幸せだと思います。前型まではガソリンスタンドで洗車をしてもらっていたようですが、現在のクルマは、暇を見て自分で手洗いをしているとか。愛着のほどが窺えます。
もうひとり、私より若干年齢は下がりますが、すでに50代の知人の話をしましょう。男の子を二人持つ4人家族です。彼は、クルマが大好きで、マンションを購入した際にも駐車場の確保を忘れることはありませんでした。ドイツ車に乗り、週末には朝早く家を出て、山間へひとりでドライブを楽しむ男です。ドライブ先で偶然知り合ったクルマ好きとの会話も楽しんだりしていました。
ところが、その愛車がもらい事故で損傷し、壊れ方がひどかったため、やむなく手放すことになりました。その落胆たるや、しばらくは声をかけるのも忍びないほどでした。
次のクルマを探していましたが、彼の予算と、好みの車種と、家族を乗せることとの折り合いがなかなかつかないうちに、一年がたち二年がたちということになりました。それでも、マンションの駐車場を確保し続けてきましたが、やがて、その権利を断腸の思いで手放したと聞きました。
彼も、それなりの収入はあるはずです。それでも、結論は、予算内で、どうしても欲しいと心を動かすクルマがなかったということです。
ここに、いまのクルマが、世界的に抱えた問題があるのではないかと思います。クルマを支える技術は、「より良く」を背景に、発展・進化してきました。高級と言えば、そこに大きいことが重なっていました。ところが、ある程度の性能や品質をクルマが達成した段階から、その「より良く」が過剰になったり、クルマが大きすぎるようになったりしたのではないでしょうか? このことは、クルマだけでなく、あらゆる商品について言えることでもあります。
一方で、消費者は、ある程度の満足を得たときから、自分の生活にあった「ほど良さ」を求めています。同時に、世界的な経済も、安定や停滞が当然となり、新興国のような発展は、成熟した社会にはなじみません。
「より良く」「より上級に」を頼みに開発が続けられたクルマは、ある限度を超えたのかもしれないという懸念を、すでに一部の自動車メーカーは持ちはじめています。製造する側が、ようやく消費者の感覚に気づき出したということでしょう。そのとき、彼のようなクルマ好きが、改めて本当に欲しい、買いたい、と思う新車が登場するかもしれません。
シルバー世代…免許証を手放しても

洗車のときにも感じられる「クルマの楽しさ」
写真提供:日産自動車 |
さて、最後は、高齢な私の父の話を紹介しましょう。父は、大正10年生まれの91歳です。80歳を過ぎるまでクルマを運転していましたが、いまは免許を返上しています。とはいえ、杖もつかずに歩き回るほど矍鑠としています。
父が運転免許証を取得したのは、40代になってからです。父は5人兄弟の長男で、戦争から戻ると、さっそく家族の面倒を見なければなりませんでした。後で聞くと、実はコメディアンになりたかったとか。そうした夢を胸の中に抑え込み、結婚してからは、祖母を抱えながら、母と妹と私のいる家族を支えるため働き詰めでした。その合間に、ようやく運転免許を取る余裕が生まれたのです。
サラリーマンの務めとして(?)のゴルフと、クルマの運転が、父の楽しみでした。しかし、免許を取ってすぐにはまだクルマを持てませんでした。私の家にクルマが来たのは、私が18歳になって運転免許を取得してからのことです。待ちかねたように、父は、道路地図を助手席に、週末にふらっとクルマで出かけるのを楽しみにしてきました。ゴルフも、ようやく自分のクルマで行けるようになったのです。
しかしいま、運転免許証は返上し、ゴルフも、仲間が次々に亡くなってひとりではできず、結局しなくなりました。
ある日、父は、ぽつりと私に漏らしました。
「いまでも、ゴルフと運転の夢は見るんだ……」
加齢とともに、クルマを運転するには、身体機能や反射神経が衰えたのを自覚したとき、父は運転を自ら諦めました。なかでも一番の要因は、耳が遠くなったからでしょう。運転のほとんどを目に頼るとはいえ、耳で気配をとらえることも、安全運転にとって大切なことのひとつです。運転免許証を返上したときの父の想いは、いかばかりだったでしょうか。
父の今日の楽しみは、洗車です。雨が降ったあと、うれしそうにクルマを洗車しています。
そんな父を、あるとき、私は電気自動車の助手席に乗せました。ある自動車メーカーの電気自動車を、数週間借りることができたのです。「乗ってみる?」と聞くと、即座に「乗ろう」と、父は答えました。
助手席の父は、しばらく黙っていました。そしておもむろに、「乗り心地がいいねェ〜」「すっとスピードに乗っていく加速が気持ちいい」と言い、高速道路を含めた1時間ほどのドライブを堪能しました。
父は、いまでもドライブをしたがっている。
それが、私の結論です。しかし、免許証を返上したいま、それは不可能です。かつて、わが家に初めてクルマが来て、助手席に道路地図を載せ、ひとりでふらっとドライブに出かけたようなことは、もう父にはできません。
でも、と私は思うのです。もし、この電気自動車が自動運転であったら、父はいまでもひとりでドライブに行けるかもしれないと。
クルマが自動運転になることについて、クルマに詳しかったり、運転が大好きであったりする人の中には、「クルマをつまらないものにする」という意見が大勢です。しかし、本当にそうなのでしょうか?
1980年、アメリカで「ナイトライダー」というテレビ番組が始まりました。その主人公にとって欠かせないクルマは、「キット(日本では、ナイト2000)」と名づけられ、主人公のドライバーと対話ができるほか、自動運転も可能でした。それにもかかわらず、主人公が窮地に陥る事件が起こるまで、日常的には、自分でキットを運転しているのです。
つまりアメリカ人は、ドライバーが自分で運転する喜びと、クルマが自動運転できることの利便性を、テレビドラマの中で示してみせたのです。なんと自由で、豊かな発想でしょう。しかも、30年以上前の話です。
クルマの楽しみに関する一考察

クルマのいろいろな楽しさを発信する東京モーターショーは今年11月23日から12月1日まで、東京ビッグサイトで一般公開される。(写真は前回ショー・自工会) |
クルマの楽しさや喜びについて、それを料理に例えて話すと、だれもがわかりやすく考えられるのではないでしょうか?
よく炊けた白米と、味噌汁、そしてほどよく漬けられたお新香。日本人ならだれでも思い浮かべることのできる「おいしい食事」の光景です。思わずゴクリと喉を鳴らせた読者もいるのではないですか?
一方で、フルコースで提供される料亭などでの懐石料理や、フランス料理も、「おいしい食事」と言えるでしょう。
非常に質素なご飯と味噌汁という食事も、たいへん豪勢なフルコースの料理も、どちらも「おいしい食事」に違いありません。
ならば、クルマもそうではないのですか?
クルマが楽しいと言っても、それはアクセルペダルを深く踏み込んで猛然と加速したり、専用のサーキットでカーブを限界ギリギリの速度で走ったりすることだけが、クルマの楽しみではないですね?
それも楽しみですが、楽しみのひとつでしかありません。
スポーツカーに乗らなくても、エコカーで燃費がいいことに安心したり、うれしさを覚えたりすることも、クルマの楽しさではないですか? そこには、アクセルペダルを戻す喜びや(エネルギー回生)、停まる喜び(アイドリングストップ)といったうれしさがあります。
電気自動車は長距離を走れなくてダメだと言う人がいますが、毎日、ゼロエミッションでクルマを使える快さも、クルマの楽しみではないですか? のんびり走ることで、電気自動車の長距離ドライブでは、「旅を感じる」と言うオーナーもいます。
ガレージに止まっている、旧いクルマを眺めたり、ようやく手に入れたクルマを洗車したりすることも、クルマの楽しみではないですか?
マグロと言えば、大トロしか採り上げないメディアに、赤みのおいしさや、中落ちの絶妙な味わいは語れません。1本のマグロの中にも、いろいろな味や楽しみがあるはずです。同じように、スピードやドリフトしか語れない人に、いまの消費者がクルマに何を求めているのか、どこにうれしさや喜びを感じているのか、想像することは難しいかもしれません。
それが、クルマ離れ現象と言われていることの実態なのではないでしょうか?
広く深い意味で、「クルマは楽しい」と思っている人は多い、と考えるのが私です。自分の嗜好に合わない人を顧みることなく「クルマ離れしている」とは、失礼な話です。
ここに紹介した各年代の人々は、必ずしもマニアではないかもしれません。しかし、クルマに期待を寄せている人たちです。そういう一人ひとりに温かい声をかけ、語り合い、思いに耳を傾けながら仲間を増やしていくことが、クルマを、本当の意味で根づかせていくことになるのではないでしょうか?
クルマの楽しみ方は、ひとつではないということを、私は言いたかったのです。
(みほり なおつぐ)

前へ 2/8 次へ  |